公開: 2019年10月16日
更新: 2019年10月18日
1942年7月、カリフォルニア大学バークレー校で原子爆弾の研究をしていた物理学者のオッペンハイマーは、原爆の設計を議論する会議を招集しました。この会議では、後に核融合反応を応用した核爆弾を開発したエドワード・テラーが水素爆弾を提案し、オッペンハイマーも興味を示しました。
1942年10月、グローブス大佐は、オッペンハイマーを原子爆弾開発のための科学研究チームの調整役(コーディネーター)に任命しました。オッペンハイマーは、チームの研究者として、エドワード・テラーを招きましたが、水爆開発に熱意を持っていたテラーは、核分裂反応を応用した原子爆弾の開発を優先するオッペンハイマーの方針に反対し、開発チームを去りました。
このことを恨んでいたテラーは、第2次世界大戦後の米国社会に吹き荒れた「赤狩り」旋風(ソ連の台頭による共産主義の普及を怖れたアメリカ社会では、共産主義者を社会から抹殺する運動が展開されました)の中で、オッペンハイマーは共産主義者であるとの疑いをかけられました。そしてオッペンハイマーが裁判にかけられた時、テラーは「オッペンハイマーが共産主義者である」との証言を行いました。その結果、オッペンハイマーは、全ての公職から追放されました。しかし、テラーもほとんどの物理学者から「うその証言をした人間」と言われ、物理学会での活動ができなくなりました。その後テラーは、米国軍の核兵器開発に関する軍事顧問として長年に渡り核兵器開発を指導しました。